クリサンテムム・シネンセ

読んだ本のこと、観た映画のこと、日々のことなど。

目がわるいというたとえ

きみの名前も生業も住む場所も姿も「知って」いたけど、

忘れてしまっていたのか・ぼんやりとしか知らなかったのか。

何度も勘違いをして、辿り着けなかったのかな。

ずっと惜しかったな。

と思っていたけれど、

そうじゃなくて、

わざとだったのかなあ。今じゃない、今じゃない、と。

ほんとにぜんぶ、よくできた話だ。

はぐれたこどもの手をやさしくつなぐ

だれかのつくった、歌や詩や物語が、ぴったり自分の気分と同じだという気がして、でもそれは私の言葉ではないからまったく同じではなく、ちょっとずつ真実から離れながら生きてる。

真実より大きく映し出してくれた言葉は、どうしてもそこへ辿り着きたいと思わせる力があり、それはつまり離れたところから真実に辿り着くということ。

それってすごく聞いたことある話だ。夢はいつか真実になる。ずっと前から知ってた言葉、私を導く人たちは、いつも私に同じメッセージを発している。間違ってなかったのだと確信する。

頭の中でよくやること

8(時間)×4(週)×12(月)×50(年)=19,200(時間)

週に1度、8時間話せたらこれからの人生であと19,200時間話せる。

3(時間)×365(日)×50(年)=54,750(時間)

毎日3時間話せたら、あと54,750時間ある。

自分に自分で言い聞かせるといつのまにか真実になりかねないので感情に関するうそはやめた方がいい

例えば。結婚したい!とか、付き合いたい!とかが究極の独占欲の表れだとして、それが果たされたところで本当に独占を達成したと言えるのか。気持ちが離れることと、約束することとは、やはり別物で。

それでもいいから、形のようなものがほしい。約束がしたい、というのも分かる。けどほしいのはそういうものじゃないのだけれど(ないものねだりの逆?まけおしみ?)

好き?って聞かれて、わかんない!と答えても、じゃあ付き合ってって言われたら付き合う?と聞き方を変えられると、付き合う!と答えてしまうくらいには好き。

花粉がすごい

同じ種類の木が3本以上並ぶことは自然界ではありえないことで、そこには人間の手が必ず入っている

というの、なんとも意味ありげで人生の比喩っぽいけど、それはただの深読みしたいだけの人間の発想なのである

山の芋鰻になる

便宜上、"お告げ"と呼ぶ「いきすぎた知性」に触れて思い出したこと。当然起こってしまう不思議なこと、そういう超越したパワーを動じず受け入れて何気ない様子で次のステップにすすむ方がイケてる、冷めて嗤うなんてダサい。「そんなこと」が関係ない空間で「そんなこと」に固執してもどうにもならない。

確かに、不思議が起こっても仕方のない動きをしているのに、その不思議をスルーするなんてどうかしていた。どうにかしたらどうにかなるのに。だいたいのこと、どうにかなるのに!

おもしろい人におもしろがられるほど光栄なことはない。自分のことが信じられないのなら、信じる人が信じてくれるということを信じる。